ないの?」
「あら、わたし、忘れていたわ、すぐ取ってくるわ」
香代子は大急ぎで、へやからとびだしていったが、そのあとで、床に倒れていたひとは、よろよろと起きなおった。
年はまだ、五十まえだと思われるのに、頭の毛はもう雪のようにまっ白だ。そしてなんとなく、上品な感じのする紳士だったから、文彥はホッと胸をなでおろした。このひとならば悪人ではない。……白髪の紳士は床から起きなおったが、まだ頭がふらふらするらしく、足もとがひょろついているので、文彥は大急ぎでいすを持ってきてあげた。
「おじさん、これにおかけなさい。あぶないですよ」
「ありがとう、ありがとう……」
白髪の紳士はよろよろといすに腰をおろすと、はじめて文彥に気がついたように、
「おや、きみは……?」
「おじさん、ぼく、竹田文彥です。きょうのテレビを見てやってきたんです。おじさん、なにかぼくにご用ですか?」
竹田文彥という名を聞いたとたん、白髪の老紳士の顔色がサッとかわった。
ああ、このひとは文彥に、いったい、どのような用事があるというのだろうか。
地底の音
「文彥――おお、きみが文彥くんだったのか」
白髪の老紳士の顔には、サッと喜びの色が燃えあがったが、すぐにまたいたそうに顔をしかめて、
「香代子は……香代子はどうした?」
「香代子さんならいま薬をさがしにいきました。おじさん、いったいどうしたんですか?」
「いや、なに、年をとるとしかたないもんでな。足をすべらせて、|暖《だん》|爐《ろ》のかどにぶっつけたのじゃ。ははは……」
文彥は思わず相手の顔を見なおした。
このひとはうそをついている。このひとはさっきの老婆のステッキで、なぐり倒されたのにちがいないのだ。それなのに、なぜこんな見えすいたうそをつかねばならないのだろう。……文彥はなんとなく、気味が悪くなってきたが、そこへ香代子が薬とほうたい[#「ほうたい」に傍點]を持ってきた。
そこで文彥も手伝って、応急手當てをしたが、幸い傷は思ったより、ずっと軽かった。
「おとうさま、お醫者さまは……?」
香代子が心配そうにたずねると、
「いいんだ、いいんだ、醫者なんかいらん」
そのことばつきがあまりはげしかったので、文彥はまた、相手の顔を見なおしたが、すると老紳士も気がついたように、にわかにことばをやわらげて、
「香代子、おまえはむこうへいっておいで、わしはこの少年に話があるから」
香代子は心配そうな目で、オドオドとふたりの顔を見ていたが、それでもだまってへやから出ていった。
あとには老紳士と文彥のふたりきり。老紳士は無言のままくいいるように文彥の顔をながめている。文彥はなんとなく、きまりが悪くなってうつむいてしまったが、そのときだった。文彥は老人のほかにもうひとり、だれかの目がジッとじぶんを見ているような気がしてハッと顔をあげて、へやのなかを見まわした。
まえにもいったとおり、そこはたいへんゼイタクなへやなのだが、なにもかも古びていて、なんとなく陰気な感じがするのだ。しかし、そこには老人と、文彥のほかにはだれもいない。それではじぶんの気のまよいだったのかと、文彥は老人のほうへむきなおろうとしたが、そのとき、ふとかれの目をとらえたのは、暖爐の橫のほのぐらいすみに立っている、大きな西洋のよろいだった。
文彥はハッとした。ひょっとするとあのよろいのなかにだれかひとが……だが、そのとき老人の聲が耳にはいったので、文彥はやっとわれにかえった。
「文彥くん、なにをキョトキョトしているんじゃ。わしのことばがわからんかな。きみのおとうさんの名まえはなんというの?」
「あ、ぼ、ぼくの父は竹田|新《しん》|一《いち》|郎《ろう》……」
「香港でなにをしておられた?」
「貿易會社の社長でした」
「おかあさんの